北海道の日本海沿岸の沖合はかつてはニシンの大漁場。重要な産業として明治・大正期に水揚げ最盛期を迎え、繁栄を極めました。ニシン漁船の船尾には、船大工による彫刻絵模様〈化粧板〉が据えられていました。船大工ごとに個性的なデザインが施され、船大工同士では化粧板を見ると誰が作った船か、すぐわかったといいます。人命を守るために構造が大事な船。そこに施された彫刻には、船大工の心意気が感じ取れます。
竹谷隆之 造形作家
「漁船の化粧板」
竹谷隆之さんは、故郷の北海道で「漁師の化粧板」をリサーチ。漁師の家に生まれ育った竹谷さん、幼い頃から漁船は身近な存在でした。自身の著書「漁師の角度」では、漁船を彩る化粧板を漁師の雰囲気を持つモチーフとして用いています。この化粧板は、北海道で盛んだったニシン漁の漁船に据え付けられていたもの。当時の漁船が今も残るニシン番屋へと向かいました。
デザインの宝物
船に刻まれた漁師の心意気
クリエーター
竹谷隆之 造形作家
1963年 北海道生まれ
漁師の家庭に育つ。卓越した造形力と、独自の解釈で描かれるデザイン力が高く評価されている。映画・玩具・フィギュアなどさまざまな分野で活躍。映画「シン・ゴジラ」、「進撃の巨人」ATACK ON TITANの超大型巨人の雛型制作、「ジブリの大博覧会・王蟲の世界」の雛型制作・造形監修など数多くの作品に携わる。主な出版物に「漁師の角度・完全増補改訂版」(講談社)などがある。
ニシン漁は、3~5月にかけてニシンが群来する3ヶ月間の漁で一年の蓄えを稼ぐほど、活気に溢れていました。漁期に合わせて道内外からの多くの出稼ぎ漁夫が雇われ、宿泊所と漁場の親方の住居を併設した建物はニシン番屋と呼ばれました。船大工も漁場ごとに所属があり、手掛けた彫刻からは腕を振るった跡が見てとれます。しかし、昭和初期から漁獲量は減り、昭和30年頃にはニシンの群来はほぼ消失。使われていた木造船もどんどん姿を消しています。
船大工の息遣いが伝わる 化粧板のディティール
竹谷さんにとってニシン漁船の化粧板は、デザインの原体験。学生の頃から写真を撮るなどして少しずつ追いかけてきました。あらためて化粧板を見たいと訪れたのは、旧留萌佐賀家漁場。ここは江戸末期から昭和中期まで、113年間ニシン漁を営んできたニシン番屋のひとつです。最盛期のニシン番屋の様子がほぼ完全な形で残されており、繁栄の歴史を伝える国指定史跡です。ここで昭和29年に新造された木造船とご対面。竹谷さんは70年の時を経た今も、作られた当時の姿で船大工の技を伝える化粧板に目を見張りました。
波をかき分ける、波を跳ね上げながら進む、勢いのあるデザイン
さらに大きな化粧板があると聞いて、増毛へ。「ノミでざくざく削った跡をわざと残すような仕上げが効果的」と竹谷さん。彫り跡を意図してかっこよく残すことは、磨いて綺麗に残すよりも難しいと指摘します。化粧板は船の後方に取り付けられるもの。ノミの入り方を見て「力強さや前進を感じるデザイン」と話します。ニシン漁船は、漁師の命を預かることが第一。そこに施された化粧板から、船大工の「〈彫ってやる!〉というような心意気」が滲み出ています。「思いもよらずにやっていることが伝わる」デザインのおもしろさを感じています。
船の化粧板に込められた意味
彫刻は船大工の腕の見せ所。菊や牡丹などの花、獅子、桃、唐草など、様々なモチーフが鮮やかな色彩で施されました。化粧板に込められたデザインの意味について、漁師文化の中では記録として現存するものは見つかっておらず、「海に出るというのは命がけのことで、お守りや豊漁を願うという意味もあるのでは」と竹谷さんは推測します。ニシン場には船霊様や恵比寿様などを祀り、海上安全と豊漁を祈願する年中行事がいくつもありました。竹谷さんは、自身の記憶にある神社や漁家住宅の彫り物や飾りから化粧板を想起させる造形を回想し、そのつながりに想いを巡らせます。
どこに行けばこのデザインの宝物に会える?
旧留萌佐賀家漁場
幕末に地元の有力な漁家であった佐賀家が、留萌に最初に開いた漁場。残された三千を超えるニシン漁労具は国指定重要有形民俗文化財に指定。特別公開する場合がある。
〒077-0000
北海道留萌市礼受町13番地の1 他
詳細はホームページをご確認ください
千石蔵
かつて増毛港にあり漁具の保管に使われていた。現在は移転し、ニシン漁の歴史をたどる船、漁具、写真の展示やイベント等に使用されている。冬季休館。
〒077-0203
北海道増毛郡増毛町稲葉海岸町
利用詳細はホームページをご確認ください